殿様街道3(4.7km)
2025/4/21
 3回目は、東光寺門前から定光寺境内の徳川義直公霊廟までの区間を辿る計画だった。前回に歩いた際に水野大橋手前の信号交差点角に殿様街道の標識とウォーキングマップの案内板があったので、300m程手前のここから歩き始めることにした。この案内によるとハイキングコースとしての殿様街道は、当時の面影を良く残しているとされる東光寺東の地点から石坂峠までの区間(1.2km)を指しているようだ。
 殿様たちが辿った街道の途中にある横笛嶺(とうげ)と称されていた所が最高点で、眺めが良く休憩するにも適した地点だったという。江戸時代末期の書物「尾張徇行記」にも景色の良い地であったことが記されている。比較的広い平坦地で現在は森林交流館という施設があって現在も眼下に景色を眺められるので寄り道することにした。 
1888〜1898年(旧地図)と現在の地図の比較<今昔マップ on the web>
現在の地図の東光寺付近から尾根を北上する殿様街道の道筋は旧地図にも記されている
旧地図では石坂峠から北上して森林交流館入口北まで進み等高線沿いに北東方向へ進路を変えて現在の駐車場入口付近に至っている
車道は森林交流館の南で西寄りに2つのS字カーブを描きながら北東へ向きを変えて駐車場入口に至っている
横笛嶺(駐車場入口)先の旧地図の道筋は、500m程先で車道より東寄りを進んだ後車道に再び合流している
殿様街道(定光寺街道)<Setopedia(瀬戸市HP)>
 尾張藩の藩祖、徳川義直の廟所(埋葬場所)が築かれている定光寺と名古屋城下を結ぶ道筋の一部が定光寺街道で、歴代の藩主が廟所を参拝する時に利用したことから、俗に「殿様街道」と呼ばれていた。
 1 殿様街道の道程

 この街道は、藩主たちが行列を組んで名古屋城を出立し、名古屋大曾根から信州飯田街道(瀬戸街道)を東へ進み、現在の尾張旭市城前町の「砂川(すがわ)」交差点から少し東にあった八瀬(やせ)の木「つんぼ石」で左へ折れ、城前公園の前から濁(にごり)池の畔を通り、森林公園運動広場や乗馬場を通り抜けて、尾張旭市と瀬戸市の境にあった最初の難所の柏井(かしわい)峠へ向かう。ここから水野団地を通り越し、水野川を渡って街道筋にある薬王山東光寺へ到達する。東光寺には歴代藩主のうち4人が参拝途中で休憩のために立寄ったという記録が残っている。
 
 東光寺前を出立して、旧中水野村(三沢町1丁目)集落の北側から大平(おおひら)山(定光寺自然休養林)麓の山路をしばらく進むと、敷き詰めた石畳の急な坂道になる。この辺りは「石坂(いしざか)」と名付けられ、石坂峠までの景観は殿様街道の面影が最も色濃く残っている。

 石坂峠から北へ登ると殿様街道の最大の難所である丸根(まるね)山の頂へたどり着くが、その間の正確な道筋は詳らかではない。丸根山の頂きには、中部森林管理局が運営する定光寺自然休養林の大駐車場や森林交流館が設けられ森林美豊かな行楽地となっている。尾張徇行記(おわりじゅんこうき)には丸根山の頂を「横笛嶺(よこぶえとうげ)」の名で記され、昔から庄内川や高蔵寺辺りを一望に見渡せる風光明媚な景勝地とされていた。

 横笛嶺から北へ向かう祠堂(しどう)山の山路は東海自然歩道と重なっており、正伝(しょうでん)山の南麓で右折して道なりに進むと定光寺公園に至る。
現在は正伝池を中心に定光寺公園として整備されているが、昔は正伝池の排水堰辺りに「霊亀岩(れきがん)」という巨岩があり、この石を跨ぐように板橋が架けられていた。霊亀岩橋を渡って北東へ少し進むと定光寺門前の広場に到達する。下馬には「直入(ちょくにゅう)橋」という石橋が架けられ、そこから先は、「烏石嶺(うせきりょう)」という名の九十七段の石段が続き、山門まで徒歩で登る。目的地の廟所は定光寺境内の北東最頂部に設けられている。

 廟所参拝路の総道程は約六里(24km)であるが、このうち八瀬の木の「つんぼ石」から定光寺までの約三里(約11km)の道程が「殿様街道」と呼ばれている。ただし江戸時代の文献には殿様街道という街道名は著されておらず、定光寺街道・定光寺御道筋・御成筋・往還通りなどの様々な名称を用いて記されている。

 この街道の道筋は古くから存在し、古くは「笠原街道」と呼ばれ、徳川義直も遊猟時に度々利用した。笠原街道は定光寺からさらに東へ延び、下半田川村を通り美濃笠原村へとつながっており、下街道の脇道とも言われ、ここから下街道を経て中山道に通じており、祖廟参詣のための街道だけでなく、生活道路でもあった。 
 2 もう一つの街道

 中水野村を通る殿様街道は丘陵地帯を通過するため起伏が激しく、新居村から中水野村を経て定光寺へたどりつくまでに難所が2か所もあり、大名行列に適していなかった。廟所造営の後の73年間は、大森村(守山区)で瀬戸街道を左折して志段味村を経て、東谷山の麓である下水野村十軒家(十軒町)から水野川渓谷沿いの旧道筋を通って下水野村入尾(鹿乗町)へ出、庄内川右岸沿いの岩割瀬(いわりぜ)を通り、正伝山の南麓を抜けて霊亀岩橋を渡り、定光寺門前へ至る道筋を利用した。

 この道筋は比較的起伏が少ないこともあり「姫街道」とも称した。国道155線の山裾崖の真上に今でも道筋が残っているが、片側断崖絶壁となり危険で通れない。水野川の渓谷沿いには、藩主たちが名勝の目鼻石(めはないし)・東門滝(とうもんのたき)・筆捨山(ふですてやま)を眺めて小休憩したと伝わる「御賞覧場(ごしょうらんば)」がある。

 尾張藩は街道筋の村々に対して、村ごとに人足を出させるなど、橋の整備のみでなく、街道全般の整備にも力を入れていた。二代藩主光友、三代藩主綱誠、四代藩主吉通の3人は古い殿様街道を(姫街道)を利用して祖廟を参拝したと考えられる。
 3 余話 廟所造営等

 徳川義直は慶安3年5月7日(1650.6.5)江戸麹町の市ヶ谷藩邸で死没したが、遺骸は直ちに国元へ戻り、定光寺へ運ばれ埋葬された。その後、慶安5年(1652)までの3年間をかけて二代藩主光友が廟所を完成させた。同時に霊亀岩を跨ぐ「霊亀岩橋」も架けられた。
 
 昭和36年に定光寺公園の正伝池が造成されるまでは、この一帯はのどかな田園風景であり、田畑の間を縫うように大洞川が流れて、定光寺門前の南西で川を堰き止めるように「霊亀岩」という亀の甲羅に似た巨岩が渓流に露出していた。その下流は美しい「御手洗(みたらい)川」の渓谷が続いていた。昔は、霊亀岩を跨ぐように、立派な板橋が架けられていたと伝わっている。霊亀岩橋は藩主専用であるから、村民は隣にあった粗末な土橋を渡ったと言われている。今はコンクリート製の模造の霊亀岩橋が架けられている。
 
 歴史文化基本構造推進事業 瀬戸の魅力再発見「水野の殿様街道を歩く」<瀬戸市HP>
  散策する場所
 本日、散策する場所は尾張の殿様がお墓参りを済ませて源敬公御廟所がある定光寺から名古屋城へ帰る道筋をたどり、定光寺自然休養林の中を通って東光寺へ向かう「石坂」という殿様街道の一部です。この場所が殿様街道の面影を最も色濃く残している所です。
 源敬公廟がある定光寺門前から出立し、霊亀岩橋(れきがんばし)を渡り、大牧湿地を通って定光寺自然休養林の東海自然歩道を通って丸根山の山頂まで登坂しますが、この区間は、本日は自動車に乗って移動します。
 丸根山の山頂には広い駐車場がり、その西端に定光寺自然休養林の森林交流館が建てられており、この辺りの景色について尾張徇行記(おわりじゅんこうき)の中水野村の項に次の記述があります。『定光寺山路に横笛(よこぶえ)嶺(とうげ)という所があり、この山の頂きより西を望めば、玉野村や外ノ原村辺りを眼下に見下ろし、又坂の下り口より、玉ノ川の流れが帯の如く見へ、水辺の村落.一瞥(いちべつ)して尽くせり。佳い景色の地なり。』 以前はこの場所に木製の展望デッキがありましたが、老朽化で危険なためか、現在は取り除かれています。 ここからの眺めは素晴らしく、庄内川対岸の高座山や高蔵寺ニュータウンが一望にでき、江戸時代から「横笛嶺」と称して、まるで横笛音を聞くように、玉の川の川風が吹き上げる絶景地として表現されています。尾張の殿様一行も険しい山を登ってきてこの景色を眺め一休みしたことでしょう。
 丸根山大駐車場から南へ降り、キャンプ場入口の辺りまでは殿様街道の道筋を見失いますが、更に少し南へ進んだ辺りに通称「石坂峠」という場所があります。石坂峠で市道から岐(わか)れ、自然休養林の林間を通って三沢町(旧中水野へ向かう急な下り坂は「石坂」と称して、フットボール大の石が敷き詰められた石畳となっています。自然休養林に囲まれた山道は、現在でも民家が一軒もなく殿様街道の面影が残されています。 
水野大橋手前の看板
 中央下の東光寺の右手から北の石坂峠まのハイキングコースが殿様街道と記されている。
 現在の地図と重ね合わせると、中央右の丸根山展望台辺りがいちばん標高が高く横笛嶺と思われる。
森林交流館Pに立つ殿様街道(横笛嶺)の説明看板
 定光寺の源敬公廟は初代尾張藩主徳川義直公の墓所であり、歴代の藩主が参拝するときに通った道は定光寺街道(殿様街道)と呼ばれている。名古屋城を出発した藩主たちの行列は、善光寺街道から瀬戸街道へと進み、新居村八瀬の木から柏井峠を越して中水野村へ入り、石坂や横笛嶺を越して定光寺へ向かった。このうち八瀬の木(つんぼ石)から定光寺までの約11kmの道程が殿様街道である。この丸根山の山頂は、殿様街道随一の難所であるが、玉野川を一望でに見渡せる「横笛嶺」という景勝地であると『尾張徇行記』にも記されている。
せとモノがたりの会
<水野大橋南の信号交差点角のマップと「殿様街道ハイキングコース」標識1>
ここから先の殿様街道は、ハイキングコースとして整備され標識が導いてくれる
<水野大橋北の「殿様街道ハイキングコース」標識2>
<東光寺>
  <東光寺門前東50mの「殿様街道ハイキングコース」標識3>
石坂峠まで1.1km・約30分、定光寺まで約3km
いきなり石坂峠への登りが始まる

<砂利道>
300m程で舗装はなくなり墓苑業者が整備した砂利道になる
<墓苑入口の「殿様街道ハイキングコース」標識4>
石坂峠まで約0.9km、定光寺まで約2.8km
砂利道は100m程で木立内の山道へ
<南へ延びた尾根上の山道>
右や左に谷が現れ尾根道であることを実感する
新緑と落ち葉を踏みしめて歩く音が心地良い!
<コンクリート舗装路>
喜んだのも束の間、まさかのコンクリート舗装路の出現にびっくり!?
瀬戸市HPやネット上の資料にも記載がなく山道が続くと信じ込んでいた…
<「殿様街道ハイキングコース」標識5>
石坂峠まで約500m、定光寺まで約3.0km
この標識には「水野地域まちづくり協議会」の表示があった
落ち葉が積もっているが、相変わらずコンクリート舗装路が続いている
<落ち葉に埋もれた石畳>
先程の標識を過ぎるとすぐに石畳が現れるが、落ち葉の下はコンクリート舗装路だ
<石畳の形状 @>
径10〜30cmの玉石がコンクリートの床から顔を出している
この部分だけ見るとコンクリートを流して玉石を埋め込んだ感じだ
<石畳の形状 A>
玉石が多い所は石畳の上にコンクリートを流して隙間を埋めたようにも見える
コンクリートに埋まっていない玉石も所々に見られる
<石坂峠のコンクリート舗装路の一部(中央)>
玉石は少なくなるがコンクリート舗装路は石坂峠の最上部まで続いていた
資材の運び込みも大変な山道を何故コンクリート舗装したのだろうか?
殿様街道の面影を味わうというよりコンクリート舗装への疑問を強く感じた登りだった
<石坂峠に到着>
江戸時代の絵図に石坂峠の名称はなく資料によれば通称ということらしい
コンクリート舗装が目的ならわざわざ大量の玉石を埋め込む必要はない
玉石の石畳が古くからあり石坂と呼ばれたことが峠名の由来だろう
<「ハイキングコース」標識6・石坂峠側の殿様街道入口>
定光寺まで約2.6km
水野地域まちづくり協議会の標識があるが殿様街道の表示が無い
定光寺方向はハイキングコースとなり中水野駅方面は車道経由になっている
峠側からの殿様街道分岐は分かり難くアーチェリー場入口の南の鉄柱が目印
<水野地域まちづくり協議会の「ハイキングコース」標識7>
定光寺まで約2.1km
殿様街道と同じ形の標識だが石坂峠からはハイキングコースとしての扱いだ
定光寺までの距離表示が続くのは殿様街道を意識してのことか?
この先はS字車道とズレがある旧地図の道筋は不明なので車道を進む
<丸根山駐車場・森林交流館入口
旧地図の道筋は奥の駐車場端の木立付近まで進み右手のP入口方向へ
左手トイレ横を進み森林交流館を通り過ぎた先の急斜面の上に展望地がある
<Pトイレ横の定光寺自然休養林案内図看板(林野庁)>
「殿様街道ハイキングコース」付近は、自然休養林(国有林)でなく管轄が違うようだ
<「自然休養林案内図」横に立つ「殿様街道(横笛嶺)」の看板)>
「せとモノがたりの会」は、瀬戸市が進める地域の歴史文化や自然の景観などを保存・活用する活動の一つ
「殿様街道」と尾張徇行記にある景勝地「横笛嶺」についの説明がある
<展望地からの眺めた「高蔵寺ニュータウン」>
森林交流館の横からも眺められるが少し先に開けた展望地がある
<高座山>
以前は展望デッキが建てられていて広い範囲が展望できたらしいが
現在は取り壊されていて展望箇所の地面に手すりが設置されている
周りの木の枝の処理をしないと視界がさえぎられる心配も…
<水野地域まちづくり協議会の「ハイキングコース」標識8>
丸根山駐車場入口の向かい側に立つ
ハイキングコースは階段左の山道を登り東海自然歩道へ 定光寺まで約1.6km
旧地図の道筋は車道に近いので車道コースを進み、500m先で平行する山道へ
<暗渠で横切る川とその先の山道分岐>
分岐は分かり難いので手前の川のガードレールが目印
<山道分岐・車止めの鎖>
旧地図の道筋はこの山道を通っているのでここを進むことにした
<車道に平行する山道>
100m程平行して進み右へカーブして車道から離れる
<東海自然歩道に合流>
右カーブして50m程で東海自然歩道に合流
合流地点に東海自然歩道の禁煙表示看板あり
<車道合流地点・「ハイキングコース」標識9>
東海自然歩道に合流後200m程で再び車道へ
定光寺から来る場合は両脇の東海自然歩道の道標が目印
定光寺まで約600m
<定光寺公園>
芝生広場、六角堂・赤い橋がある正伝池、池を周回する散策路がある
春の桜・秋の紅葉の名所でもある
<正伝池と六角堂>
正伝池が造成される以前は田園地帯で中央部を大洞川が流れていた
田園地帯縁を巻くように街道があり殿様たちは大洞川の霊亀岩橋を渡った
尾張名所図絵には藩主専用の屋根付き橋と村民用の橋が描かれている
<定光寺門前「参道入口・直入橋」>
直入橋の説明看板には、尾張藩主二代徳川光友が
承久2(1653)年に奉行熊谷政実に命じて架設したとある
瀬戸市指定文化財
<165段の階段と山門>
<山門左手に掲げられた観光案内>
應夢山定光寺は建武3(1336)年創建の臨済宗妙心寺派の寺
定光寺本堂と徳川義直公廟所は重要文化財指定
廟所の扉の彫刻と獅子門の獅子は左甚五郎の作という
<徳川義直公廟所入口>
拝観料100円を納めて参拝
<定光寺境内と廟所の平面図> <獅子の門>
<竜の門>
<焼香殿と宝蔵殿(右)>
屋根を除いて覆屋で保護されていて内部はよく見えない
<唐門と源敬公墓(奥)>
<メ モ>
・ 「殿様街道ハイキングコース」と名付けられた区間は、砂川からの殿様街道全体を通して山道や石畳が続き最も当時の面影を感じることができると思っていたが、やや期待を裏切られ思わぬ疑問を抱く結果となった。殆ど全区間がコンクリート舗装され石畳もコンクリートで固められていて山道とはほど遠いものだった。今回は落ち葉で舗装が覆い隠された所も多かったが夏場になったらどんな景観になるのだろうか?
・ 瀬戸市HPの記載では、東海自然歩道経由のハイキングコースを殿様街道としている。横笛嶺から更に登るのは不自然で旧地図よりも離れた道筋を辿るので、旧地図に重なる車道を進み途中で分岐して東海自然歩道に合流する道筋を歩いてみた。入口に車止めがあるが東海自然歩道並に整備された道が存在している。 
・ 廟所造営後73年間は志段味村経由で庄内川の岸から霊亀岩橋へ至る旧殿様街道を辿っていた。「享保10(1725)に廟参道筋(殿様街道)変更のために水野大橋を架設し、人足として奉仕した村民の年貢が免除された」という記録」も残っていて、これ以後は柏井峠・横笛嶺越えの道が使われるようになった。
・ 「廟所の建物に左甚五郎作の彫刻がある」という案内が定光寺山門横に掲げられていたが、建物は覆屋で保護され内部は見え難い状態になっていた。彫刻もガラスや金網で保護されていて細部まで見ることはできない。
・ 後日(5/28)に、「殿様街道ハイキングコース」の区間を往復してコンクリート舗装の状態を再確認した。1か月前に初めて歩いた際には、時間的な制約もあって落ち葉の下まで確認しながら歩いていないので、今回は石坂峠までの数か所について落ち葉を取り除いて確認した。舗装の仕方も斜めになっていたり玉石の周りが盛り上がっていたりしている状態が見られた。谷側は型枠を使ったと思われる形跡があるが山側はコンクリーの表面をコテで仕上げただけのようだ。
 敷きつめられた玉石の隙間にコンクリートを流し込みながら手作業でコテで仕上げるという途方もない労力をかけて造られたと思われる。谷側に短い型枠を固定してコンクリートを流し込む作業を繰り返したと思われる区間もあった。標識5の谷側など壊れた側溝が残っている所もあった。
 この日の確認の結果、元々あった石畳の玉石の上や隙間に手作業でコンクリートを流し込みながら舗装区間を延ばすという方法により造られた可能性が強くなった。それにしていも、地道な作業の繰り返しという大変な労力をかけて舗装するに至った理由は何なのか? 疑問は深まるばかりである。
<石坂峠直下のコンクリート舗装路(5/28)>
短い型枠を繰り返し使ったと思われる区間
型枠に接した状態で埋まった玉石(右上)
小さい玉石は埋まっていて大きい玉石の上部が出ていると思われる
<石坂峠のコンクリート舗装路(5/28)>
「上掲した石坂峠の写真」のコンクリート周りの表面の土を取り除くと
コンクリートに埋まった玉石が現れた
玉石を含む舗装はここまで続いていることが分かる
ホーム